吉原義人(よしはらよしんど)さんをご存知でしょうか。
日本屈指の刀鍛冶であり、39歳という若さで刀匠として最高位である「無鑑査」にまで登りつめた人物です。
今回は吉原義人さんのプロフィールや経歴について、また「童子切安綱」との関係について調べてみました。
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目次
吉原義人さんのプロフィールや経歴
2017年時点で188名しかいないと言われる刀鍛冶。その最高位である「無鑑査」は歴代で39名(内6名が人間国宝)、2020年時点では17名しか認定されておらず、吉原義人さんはその中の1人です。次期人間国宝との呼声も高い吉原義人さんのプロフィールについて以下にまとめました。
- 氏名: 吉原義人(よしはらよしんど)
- 生年月日: 昭和18年2月21日
- 年齢: 78歳(2021年5月現在)
- 出身地: 東京都葛飾区(生まれは世田谷区)
- 職業: 刀鍛冶(日本刀鍛錬道場代表)
- 雅号又は銘: 義人(よしんど)
- 職人区分:日本職人名工会殿堂名匠, 東京都指定無形文化財保持者
吉原義人さんの祖父である吉原国家(初代国家)さんは、東京月島に鍛冶場を構えると包丁や鋏などを作り始めました。その後、刀専門の鍛冶屋へとなっていきます。
大正時代になって月島の鍛冶場が津波で大きな被害を受けたことから、現在の葛飾区へ移転した後、吉原義人さんの父も刀鍛冶の仕事を始めました。
しかし、第二次世界大戦終戦後から7〜8年に渡って、アメリカより日本刀の制作が禁止されました。それに伴い祖父は鉄工所の経営へ、父は転職することになります。
吉原義人さんが刀鍛冶としての本格的な修行を開始したのは、サンフランシスコ講和条約ののち日本刀の制作が解禁された昭和30年頃のことだったそうです。
ただ、幼い頃から鍛冶仕事に親しんでいたこともあってめきめきと頭角を現し、昭和40年には文化庁認定刀匠に、昭和47年に日本美術刀剣保存協会主催の「新作名刀展」に出品した日本刀は高松宮賞を受賞しました。
◯ 太刀 銘 武蔵国住吉原義人作(新作名刀展:高松宮賞受賞作)
そして昭和57年には39歳にして「無鑑査」認定を受け、名実ともに超一流の刀鍛冶となりました。そのご活躍の幅は、伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮にて御神宝として奉納される「御太刀」の制作に3度の指名を受けたり、刀匠として唯一メトロポリタン美術館およびボストン美術館に作品展示されるほどです。
ちなみに弟さんは三代国家として、国家の名を継ぎ同じく無鑑査刀匠としてご活躍されています。
お子さんの吉原義一さんは僅か5年という最短修行期間で刀匠認定を受けると、新作名刀展に初出品で新人賞と努力賞を受賞、さらにその後10年連続で特賞を受賞する快挙を達成しました。父を超える史上最年少の36歳という若さで無鑑査刀匠となりましたが、悔やまれることに癌のため51歳の若さでご逝去されています。
近代において武器としての実用性をほぼ失いつつある日本刀ですが、いまでは日本の歴史・伝統文化の証拠品かつ芸術工芸品としての側面を併せ持つ存在となっています。
刀剣乱舞や鬼滅の刃、るろうに剣心などエンターテイメントシーンでも新たな活躍を見せる日本刀。その在り方には賛否両論ありますが、日本刀が語り継がれる一助となっていることは間違いありません。
吉原義人さんと童子切安綱
「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」とは、天下五剣の一振りに数えられ、かつ天下五剣の中でも最も古いことからその筆頭としての地位を確立する名刀中の名刀です。
童子切という号は、平安時代に酒呑童子という鬼を源頼光が斬った伝説に由来し、別名鬼切丸(おにきりまる)とも呼ばれています。
その伝来も荘荘たるもので、源頼光から始まり足利家、豊臣秀吉、徳川家康と受け継がれてきたとされています。元祖日輪刀ともいうべきこの刀は国宝に指定され、東京国立博物館に収蔵されています。
童子切安綱を作刀したのは、刀工の始祖と呼ばれる大原安綱(おおはらやすつな)ですが、その1000年前の刀匠に吉原義人さんが挑むこととなりました。具体的には、清和源氏を祀る兵庫県多田神社から、源頼光の没後1000年の記念祭に向けた、童子切安綱を超える御神宝作成を依頼されました。
2016年に依頼があり、2021年5月1日から兵庫県 多田神社の宝物殿にて特別公開されています。
おわりに
吉原義人さんのプロフィールと経歴、童子切安綱との関係についてまとめました。
息子さんを早くに亡くされたこともあって、修行を開始されたお孫さんを含め後進の育成にも力を注いでおられます。影ながら刀剣業界の発展を祈りたいと思います。